八日堂 信濃国分寺
(宗教法人 国分寺)

〒386-0016
長野県上田市国分1049
TEL:0268-24-1388
FAX:0268-26-6588

ライブカメラ
信濃国分寺とは
  「国やすらかに人たのしみ、災いをのぞき福いたる」という聖武天皇の天平13年(741)の勅願により、国ごとに国分寺が創建されましたが、信濃国分寺は信濃の国の鎮国道場として、また人々の心のよりどころとして1300年近い法灯を現在に伝えております。

 現在の境内には薬師如来を安置する本堂や国重文の三重塔をはじめとする堂塔伽藍がそろい、1月7日~8日の縁日にちなんだ「八日堂のお薬師さん」の名で近在の信仰を集めています。また寺で頒与している「蘇民将来」のお守りは、家々の息災安穏と繁栄を願う護符として有名です。

 昭和30年代に現境内の南方で発掘された創建当時の寺跡が「信濃国分寺史跡公園」として整備され、当時の面影をしのぶことができます。


◆宗派:天台宗 ◆別称:八日堂 ◆本尊:薬師如来



◆現在の諸堂:本堂(薬師堂)・三重塔・大黒天堂・観音堂・地蔵堂・鐘楼・宝蔵・仁王門・客殿(仏殿)・庫裏(寺務所)・招提庵(参拝者休息所)など

 


◆おもな年中行事:除夜の鐘・初参り(元旦~3日)・八日堂大縁日(1月7日~8日)・お焚き上げ(1月中旬)・節分会(2月3日)・大黒天縁日(3月8日)・大般若会・花祭(4月8日)・蓮のフェスタ(7月下旬)・三重塔公開日(8月8日)、夏の大護摩(8月7日)など
<その他、月毎護摩法要(毎月7日夜)・写経会(年10回程度)を開催しています>

 


◆文化財:三重塔(国指定重文)・本堂(県宝)・石造多宝塔(上田市指定)・牛頭天王祭文(上田市指定)・本堂再建勧進帳(上田市指定)・八日堂縁日図(上田市指定)

 

信濃国分寺の歴史の概略

741年(天平13年)【国分寺建立の詔】
聖武天皇の命令により国ごとに国分寺が建設された。
<創建当時の信濃国分寺については、信濃国分寺資料館に展示があります>

938年(天慶元年)【国分寺河原の戦】
創建時の国分寺は、平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したと伝えられる。
尼寺はその後も当初の地にしばらく存続したようだが、この事件を機に約300メートル北方の現在の地に地域が移転したと考えられる。しかし律令制度の崩壊にともない国家の保護が失われた国分寺は漸次衰退に向った。

1197年(建久8年)【三重塔建立の発願】
源頼朝が善光寺に参詣したおり、信濃国分寺の堂塔の再建を誓願したと伝える。実際には三重塔は室町中期の建築。現境内地には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が存在し、鎌倉期以降に現地での復興が始まったようだ。

1480年(文明12年)【牛頭天王の祭文】
蘇民将来の由来を述べた文献が書写された。室町時代には現存最古の建物である三重塔が建立され、地域民衆の信仰の中心となり、八日堂縁日の市は当地方の交易の場ともなった。「八日堂」の名は今も信濃国分寺の俗称として親しまれている。またこの頃、民俗信仰である蘇民将来信仰も取り入れと考えられる。

1585年(天正13年)【上田合戦】
真田昌幸、徳川勢をやぶる。国分寺では、この頃、三重塔を除いた他の堂宇が兵火にかかったと伝える。

1600年(慶長5年)【国分寺の会見】
真田昌幸が徳川秀忠と国分寺境内で会見し、和平を結んだと見せて油断させ、徳川軍をやぶる。このため秀忠は関ケ原の合戦に間に合わなくなった。

江戸時代
江戸時代に入ると上田藩主、千石氏や松平氏の援助もあり、三重塔の改修・旧本堂の再建・旧地蔵堂・旧観音堂・鐘楼の建設等が行なわれ、寺域が整備された。なお八日堂縁日の賑わいを描いた縁日図が残されている。

1829年(文政12年)【本堂薬師堂再建発願】
薬師如来をまつる現本堂は発願の時より万延元年(1860年)の竣工まで、近郷一帯から広く浄財を募り、33年の歳月をかけて完成した重層の壮大な伽藍である。

現代
昭和27年に戦争に供出された梵鐘と鰐口を再鋳造し、昭和50年代より、仁王門・観音堂・地蔵堂・招提庵等が新築され今に至る。